『Big Fat Mama』


その店は57番街の角にあった。
ビル風の強いニューヨークにおいて、
57番街に吹く風だけはなぜか暖かく感じたのは、
この店があったからだと思う。

ドアには消えそうなかすれた文字で『OPEN』と書いてある。
何の店かもわからずに俺はドアを開けた。
今思えば危険な行為だが、
その時は警戒心のかけらも感じず、
むしろ望郷心に似た気持ちが俺の体を支配していた。

ドアを開けるとコーヒーの香りがした。
入り口すぐ横の本棚の上にはオルゴールが置いてあり、
古ぼけたピエロの人形がゆっくりと回っていた。
「すいません」
思わず口にしてしまった日本語に俺は苦笑しながら、
「Hello, Excuse me?」
と、薄暗い店の奥に呼びかけた。

しばらくして奥から太ったおばさんが出てきた。
「コニチハ、Japanese Boy!」
それから俺は週に2回はその喫茶店を訪れるようになった。
おばさんはとても気さくな人で、いろいろな話をしてくれた。
安いスーパーや、おいしいバーガーショップのこと。
一人息子の話。
ヤンキースの話。
ジョンレノンが店に来たことがあるとも言っていたが、
それは本当かどうかわからない。

ユージンと別れたその日も俺はその店に行った。
俺は思わずそのおばさんの太い腕の中で泣いてしまった。
男としての恥ずかしさが、さらに俺の涙腺を刺激し、
大粒の涙が彼女のエプロンを濡らした。
どのくらい泣いていたのだろう、
その間おばさんは一言も話そうとしなかった。

俺の引出しの中には、
おばさんから貰った1ドル札がしまってある。
いつかコーヒーのお釣りに貰ったお札なんだけれど、
透かしの部分に小さく文字が書いてあった。
「Everything is with you, J Boy!!」

今でもあるのだろうか。
57番街の小さな喫茶店『Cafe Bohemia』